観客の位置、あるいは消費の位相のこと。

ミリオン5thは実によいライブでした。

たくさんの宝物を私たちに残してくれました。

待ちに待った、ミリシタ曲のステージ。

面子の意外性と新解釈で迫る既存曲群。

リアル豊川風花こと末柄里恵

4th唯一の宿題にして宿願である、オリメンのジレるハートに火をつけて。

田村奈央が体現する木下ひなた(ただしMCを除く)。

麻倉もも(藤井ゆきよ)。

香里有佐の手相を「エロ線」と喝破する南早紀。

ゆい㌧タコパ写真のぜっきー。

お決まりの協賛企業読み上げタイムで響く「きょーさんきぎょー」の大合唱には、字が読めなかったミリPの識字率の向上に涙を禁じ得ません。

文字を理解するという、次の課題が見えてきました。


閑話休題。何より、楽曲のミリオンなわけです。

恥ずかしながらしばらく情報が遅れがちで、いっそ開き直って新曲の知識をろくに仕入れずに行ったのですが、ミリオンの曲が全体的によく、と言うと傲慢ですが、非常に私好みになっていたのが嬉しかったのです。

絶えず観客がいた。

ミリオンのライブで、初めてそう感じることができました。

裏を返せば、ミリオンの楽曲に不満を持っていた、ということでもあります。

以下、諸々ざっくり。


アイドルマスター」はすっかり、巨大IPに育ちました。

ゲーム、CD、漫画、小説、アニメ、おっさん達のニコ生と、様々な作品が綺羅星のようにアイドルマスターの世界を織り成しています。

キャラクターが、設定が、舞台が分化し、個々の作品が半ば島宇宙化しつつ、「アイドルマスター」が何であるかを説明するのはとうに簡単ではありません。

それでも「アイドルマスター」を定義するとしたら。


諸説あるでしょう。

反論ももちろん予想できます。

それでも私は、「アイドルマスター」と括るための定義を、「アイドルとプロデューサーの関係」としたいのです。


アイドルマスター」の消費者は「プロデューサーと自称しまたそう扱われます。

だとすると、プロデューサーである消費者は、アイドルマスターの作品世界内でアイドルの仕事の成果を、歌曲を、ステージを消費することができなくなってしまいます。


初めてプロデュースをしたときの、アイドルマスターの楽曲に触れたときの衝撃を、まだ覚えています。

異様だったのです。

現実世界には存在しない曲を、現実世界には存在しないアイドルが実在のものとして歌う。

アイドル風のパロディではなく、ひたすら正気だということはなんとなく察しがつきました。

「太陽のジェラシー」が、「おはよう!!朝ごはん」が、「魔法をかけて!」がアイドルの仕事として認識されている世界に足を踏み入れてしまった。

当時の気分は、まさしく異世界転生です。

異世界転生をトラックに跳ねられると定義すれば、あながち間違ってないってミキ的には思うな。

とにかく、そこには既に、「アイドルマスター」の楽曲がアイドルの仕事として消費される土壌が、私の介在なしに存在していました。


つまり、私にとってアイドルマスターの楽曲というのは、私を喜ばせる楽曲ではなく、アイドルマスターという世界全体の注釈、アイドルマスターという作品世界に存在している群衆の性格の批評の痕跡だったわけです。

そこには観客がいました。

プロデューサーである私が、アイドルの女の子たちを送り出した結果を受け止める観客の存在を仮想すること、仮想のリアリティと精度を上げでいくことこそが、即ち「プロデュース」と称する営為に外ならなかったのです。

アイドルがかわいいことは知っています。

アイドルがかわいいことを私が知っていることで、「アイドルマスター」の消費、プロデュースが満足することはありません。

そのかわいさを仮想として証明することがプロデュースであり、その手がかりがアイドルランクであり、トップアイドルなる概念なのです。


妹分として毀誉褒貶の中すくすく育ったシンデレラガールズは、世界についての批評性が強い、「この楽曲を喜ぶファンが、商売になる規模で作品世界内に存在している」ことを打ち出した楽曲の数々を世に送り出しました。

個々を論じるとこのブログが終わるまでかかりそうなので控えますが、CINDERELLA MASTERの第一弾からその姿勢は明確だったように思えます。


アイドルマスター」の重力源を一気に塗り替えたアニメアイドルマスターの嫡子として期待されたミリオンライブは、ステージの充実を目指しました。

ソシャゲ隆盛の今では隔世の感がありますが、産声と同時に50人超のキャラクターにCVが設定されていて、しかも新規に37人も、一斉に声がつくというのは、当時は信じがたい事件でした。

さらに全員にソロ曲。

一周したら、さらにもう一曲ずつソロ曲。

大判振る舞いです。

なんですが。


正直、LTPとLTHのシリーズには、乗り切れなかったのです。

視点が踏み込み過ぎている。

観客が知るべくもないしプロデューサーの視点からも敢えて死角にしているアイドルの内面を語り過ぎている。

キャラクターの消費のためには極上の素材でしたが、私の目では、ミリオンライブの世界が見えなかったのです。

アイドルたちの振る舞いによって仮想として描写される観客によって彼女たちがアイドルとなっていく螺旋が、自分の手から滑り落ちてしまっていました。

プロデュースに失敗した、と言えるでしょう。

「プロデュース」という言葉が他人事であることのもどかしさに、地団駄を踏むばかりでした。


LTDでは少し機嫌を直し、LTFはかなり好きなシリーズでした。

ミリシタのリリースに伴ってミリオンライブがリブートし、新ソロ曲が用意されると聞いて、胸にあったのは諦観でした。

漫然とミリシタをやりながら、ミリオンの新曲を全く追っていなかった感情の正体は、「プロデュース」の失敗からの逃避でしょう。

MEG@TON VOICE!で聴けなかった瑠璃色金魚と花菖蒲の歌い出しだけ回収に行くか。

そんな低すぎるモチベーションで挑んだのが、ミリオン5thのLVでした。

予想は裏切られることになります。全く幸福なことに。


原点回帰を謳ったM@STER SPARKLE。

その意味を、完全に読み誤っていました。

各キャラクターの個性の紹介をやり直します、くらいの意味だろうと見くびっていました。

どの楽曲にも、強いメッセージがありました。

個性やキーワードを並べながら、キャラクターをアイドルとして消費するための構図を提供する。

漫然と特徴を把握するのに十分でありながら、深読みを許容する奥行きは「プロデューサー」として「アイドルマスター」を消費する芳醇なスパイスです。

それはまさしく、キャラクターをアイドルとして立て、その帰結として仮想の観客の存在を要請するものでした。

あの日ティンと連れて来られた扉の先の景色が開けていました。



もちろんLTP・LTHにも好きな曲はたくさんありますし、具体的にどこがどうか説明するとかなり労力がいるので、相当にすっ飛ばしました。

結論としては、青葉美咲ちゃんのブラジャーは音無女史のそれよりいい匂いがしそうだから本社ではなく劇場のロッカーを漁りたいということです。

奇声を発しながらなんとなく許してくれそうな感じが最高ですね。

私が伝えたいのはそれだけです。